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わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/81 間長涯 大阪市西区 /大阪


毎日jp

◇天文観測し寛政改暦
 角藤定憲の「改良演劇発祥之地」の碑がある新町南公園には、もう一つ碑がある。南東角の「ここに砂場ありき」だ。大阪案内人の西俣稔さんが「そば発祥の地なんです」。

 はて、そばは東京、大阪はうどんでは? 「秀吉の大坂城築城の時、資材置き場だったのが砂場。働く人たちに早くメシを食わせるために、うどんやそばのめんができたわけですな」。砂場の場所は、正しくはここではなく、新町演舞場の玄関を残す大阪屋のさらに西、今はない西六幼稚園の西側だったという。

 和泉屋、津国屋の2軒のめんの店があった。和泉屋はかなり大きな店で、店内のソテツも名物だったようだ。「さすが砂場。あんな大きなワサビが植えてある」「あれはトテツというものじゃ」「バカにするな。トテツとは血を吐くことだ」てな会話が交わされたと伝えられる。

 落語に、堺・妙国寺の「夜泣きのソテツ」を見物に来た江戸の男が「大ワサビかと思った」と言う噺があるので、ソテツをワサビというのは、どうやら江戸時代の定番のギャグだったようだ。

 その後、砂場そばは江戸へ出て、今に続くのれんでは最も長い歴史を持つが、残念ながら発祥の大阪に砂場そばはない。碑は85年、「大阪のそば店誕生四〇〇年を祝う会」が建立した。

 落語でも、大阪では「時うどん」、東京では「時そば」だが、最近は大阪にもうまいそば屋が増えてきて、納豆は食べない生粋の関西人の私も、すっかりそば好きになった。そんな話はどうでもよろしな。

    ◇ 

 少し南下して、長堀通へとやって来た。通りのグリーンベルトにある西大橋の駐輪場の西に「間長涯天文観測の地」と刻まれた石碑が建っている。間長涯(はざまちょうがい)(1756~1816)は本名・重富。新町の質屋のせがれとして生まれた天文学者だ。西俣さんが言うには「当時使われていた貞享暦は、100年たてば6時間の誤差があった。それを調整した寛政暦を作ったんが長涯なんです」。

 碑のある場所は、長堀川に架かっていた富田屋橋の跡。長涯はここで天文を観測し、奉行所はその間、橋を通行止めにしたという。そうして寛政9(1797)年に作った寛政暦は明治の初めまで使われた。日本初の日食観測用ガラスを考案するなど、日本の天文学に大いなる功績を残し、海外にも名を知られた学者だ。

 「中天游」の回(2月15日)で述べた町人学者の系譜で、長涯は重要な位置にある。長涯の師匠が天文学者の麻田剛立(ごうりゅう)で、寛政暦のズレを発見し、幕府に暦の改訂を依頼されて長涯らを江戸に派遣した人である。幕府は長涯を引き止めようとしたが、長涯はこれを断り、家業の質屋を継いだ。名誉や地位より自由な研究を重んじたところが、なんとも大阪人らしい。

 長涯の弟子にエレキテルの橋本宗吉や、懐徳堂の山片蟠桃らがいる。橋本宗吉の弟子が中天游だ。大阪はかつて、学問の中心地で、今の西区がその中核を担っていた。

 ふと、暮れかけた空を見上げると、中空に丸い月が浮かんでいた。長涯も210年余り前に、ここから月を見上げたのだろうか。【松井宏員】


毎日jp より


by IPE-OsakaOudon | 2008-05-13 12:33 | 大阪おうどん情報


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